なんだかんだ研究のこととかも色々考えたりしてましたが、滝から学べることはたくさんある。物理を学んでいるものにとってはあたりまえのことばかりかもしれないが、なんだかぼけっと感じてたことを書いてみようかと思う。

滝、とは、存在していて、存在していないものだ。

誰でも知ってることだけど、滝は、「高いがけの上から流れ落ちる水の流れ」である。
だからその主な構成物質は水であるわけだが、その水(H2Oたち)は絶えず流れ、そして流れ去ってゆく。物質としての存在は流動的で、その瞬間、その高低差を流れ落ちる水が滝という存在を成り立たせるのだが、ひとたび流れ落ちるとその水はもはや滝ではない。新たな水がその滝の存在を成り立たせ、その繰り返しが滝の概念を構成する。要するに、物質としての存在とは異なり、ある意味で水(たち)の”状態”に名前をつけた存在なのだ。

こういう風に、物質の存在とはことなる概念はたくさんある。

例えば台風もそう。台風1号とか名づけたりするけれど、それはやはり雲の流れでアイデンティティを確立するが、それを構成している空気分子たちは流動的で、台風自体の存在は空気分子たちの状態なのだ。しばらくするとそれらは消え去って(温帯低気圧とかに変わる)、台風としてのアイデンティティはなくなる。

実はどの物質もそうである。例えば今自分が使ってるボールペンはプラスチック、机は木でできているが、それらはプラスチックや木の状態の違いで個性付けられる。しかも実は、どれも究極的には原子(素粒子)でできた物質であり、全部一緒なのである。

我々生命も例外ではない。自分も所詮(原子でできた)物質であり、それらが特別な状態にあって有機物とかを構成していて、その状態として我々が瞬間瞬間に存在している。木村元という存在は、物質的な構成はそんじょそこらにある原子(もっというと素粒子)であり、それらに乗っている”状態”の違いで個性が乗っかってるにすぎない。たぶん…。

物理学ではこの「状態」という概念を確立したことに大きな進展があった。ここの物質は同一視される素粒子であり、それに乗る状態の相違が、様々な色とりどりの個性を生み出しえるのである。そうして、状態の時間変化、「ダイナミクス」が、因果的に物理法則に従っているのである。

状態としてアイデンティティを確立する存在はたくさんあるわけだが、これは「情報」という概念とも密接に通じる点がある。(ただし、ふつう情報というと”人間にとっての”という暗黙の仮定がつくようでいささか客観性にかける点があるから、物理、特に基礎物理で果たす役割は少ない。しかし量子論という人知の解釈をよせつけない奇妙な世界では、どうもこの概念が果たす役割は微妙に大きいのかもしれない、と自分は思ってる。)

その例を挙げると枚挙に暇がないが、わかりやすい例では「政府」や「国」、「お金」といったところだろうか。これらは我々の約束としての存在である。また「音楽」とかの存在もその一つだと思う。例えば自分の好きなショパンポロネーズとか、これらは音楽とし、曲としてのアイデンティティを持っているが、それらは、時間に乗った振動数とテンポの組み合わせである。情報として存在し、その存在を疑う人は普通の感覚を持っている人にとってはまずいないだろうが、物質としての実体はない。しかも、芸術的観点からもっと強烈に存在し、単なる振動数うんぬん、など言ったらきっと怒られてしまう。

もちろん自分もそう思ってないし、理屈を超えた存在であることを認める人間なのだが、ただそれを”感じる”としか言えず、物理学としてどうとらえるべきかという点ではまったく無味乾燥的な解釈しかできないのである。(しかしこの無味乾燥な世界に広がるポテンシャルは一般の人には中々伝わらないほどの広がりがあり、それが物理学や数学の醍醐味であり、神秘的な側面であることは強調しなくてはならない。)

このあたりにくると自分はもはや何を伝えたくて、何を書いているのか把握してないのだが、まあこの文章を乗せるインターネットとかもまぎれもない情報世界であり、そうして現代の情報社会は、そういう物理的実体のない存在として存在している。

(基礎)物理学はこういう世界をあまりにも無視して進んできている。まぎれもなくこういう存在は物質社会に影響を及ぼしているのに。そんなことは物理学者は誰しもわかっていて、確実な土台から一歩ずつ進み、一見普通の人や哲学者には視野が狭く対象が小さすぎるところにあるあまりにも巨大な多様性にすら人類いは追いついてないのではあるが、まあそういうことを考えるのは不必要なことではない。たとえ研究にできなくても。

ところで、最近巨大化しつつある量子情報理論というパラダイムであるが、自分は世間の流れ的にもこの巨大な船に乗せてもらっているわけである。別に量子情報理論が専門というわけではないが、東大のS先生のいう社会的分類(←Hさんから間接的に聞いた)としてそれに参加しているにすぎない。自分はこれにどう向き合っていくか、どういう研究をするべきか、それは常に考える必要がある。同じくS先生は7月19日の日記で「量子情報伝達の実験。古典的にはありえないが、量子的にはたしかにある現象を「装置として」実現してみせる。たしかに迫力はある。しかし、理論的には、(量子力学を認めれば)演習問題レベルでしかない現象なので、そういう装置ができるようになった「今」、理論としては何をしたら面白いのだろうか。」(勝手に引用)と書かれている。


自分はどうであろうか。


自分は結局よくわからないのであるが、とにかく量子論をもっと良く理解したい、というそれだけが動機にある。神様か誰だかしらないがミクロな世界がなぜ我々に理解し難く創られているのか、それともコロンブスの卵的に簡単に理解できるものなのか(少なくとも未だに世界中(の物理学者の中)で量子論を理解している人はいないと言われる;理解してると言い切る人は理解力のない人か、勘違いか、思い込みの強い人か、数学や処方箋のレベルでの理解か、であると思う)、もしくはこの理解しがたさには上に書いてきたような(情報的)存在を物理学で扱うほどの多様性の源だったりするのかもしれないが、自分は量子論に呪われているようにこれを理解したいと思ってる。これほど理解不能であり巧みに創られているのだから研究対象としてきっと死ぬまで飽きもこないだろうし。

先生の書くように、量子テレポーテーションなど少なくとも数学的や量子論の処方箋では大学の演習レベルなものは多い。それらの原理的なレベルが実験で実現可能になりつつある現在、そういう応用を追及するのも面白いかもしれないけれど、だからこそ原理的な観点を見つめなおして、前世紀の量子論を創造した前人たちとは異なる視点で量子論をより深く理解していきたい、それだけを切に願って研究をしている。

それが世間的に「面白い」のかわからないし、自分でもだから何を研究すれば「面白い」のかはわからない。手探りで探すしかない。


…。

で、こういう風に、吟味や推敲もせずに、行き当たりばったりで書く文章がネットに乗るというのは、怖いことだなあ…、と思う。いつものように適当に流してくださいませ。

…。